未来社会に向けての思想|基本となる概念

思想
これからの社会をより良くしていくために、人間として社会として必要となるであろう思想を紹介していきたいと思います。
それらの思想は多岐な分野において存在するのですが、このページではその中でも最も重要で基本となる思想を、基本概念として紹介していきたいと思います。
これから未来社会をより多く生きる時間を持つ、若い人たちには特に読んで頂けたら幸いですし、そうでない方であっても、人生や社会について真剣に考えて生きている人にはお勧めです。

・人間の価値は何によって決まるのか

人間の価値は何によって決まるのか。結論を先に述べると努力で決まると言えるであろう。もう少し詳しく言うと努力の質と量の総和だと言えるであろう。
なぜそう言えるのか。人間が成し遂げた成果の要因となるものを大きく分けると、才能・努力・運の3つに分けることが出来る。
このうち本人の意志によって変えることが出来るのは努力だけである。才能は生まれた時点で本人の意志とは関係なしに天から付与されたものである。物事を成功させるためには運も必要となってくるが、それも本人の意志で変えることは出来ない。
自分の意志で変えることが出来るのは努力だけである。つまり、成果の要因となる才能・努力・運のうち、自分の力で獲得したものは努力に基づくものだけであり、それだけが人間の価値を表すものなのである。自分の力で獲得したものではない才能や運に基づく成果が、人間の価値に関係があるなどと考えるのは絶対に間違いなのである。
しかし、現代文明社会においては、人間の価値を努力ではなく成果に結びつけてしまったのである。成果には、才能や運といった人間の価値には関係がないものが含まれているにも関わらず。
確かに、才能・努力・運のそれぞれが、成果にどれだけの影響を与えているかを客観的に知る術はない。しかし、だからと言って、人間の価値を成果に結びつけたのは余りにも乱暴であり、それが不平等の源となってしまっているのです。
つまり、才能の高い者が過大評価され、才能の低い者が過小評価されるということが、人類史において常に行われてきたのである。しかも才能というものは、その有無によって数十倍・数百倍・数千倍・もしくはそれ以上の成果を引き出すものであり、その過大評価や過小評価は余りにも莫大であり、それが差別の温床となっているのである。
その例が成功者の所得である。成功者は平均所得の数十倍・数百倍・数千倍・もしくはそれ以上の所得を得ていることがあるが、恐らく大多数の人が、その成果の要因の大半を占めているものを才能と考えているのではないであろうか。アインシュタインやモーツアルトや大谷翔平や大企業の社長のようになりたいと思っても、才能が無ければなれないのは明らかなのではないでしょうか。
人間の価値が努力であり、それは成果から才能と運を差し引いたものであるからには、人が他人を概観するときには、その人の成果から才能や運を差し引いて判断しなければならない。それは各個人の受け取った感覚等に委ねられることになり、各個人によって見方が多少異なることになるが、そうであったとしても才能や運を差し引かず成果だけで判断するよりも大きく真実に近づくはずである。しかも、大きく真実に近づく量は格段なのである。なぜなら、成果の要因に占める才能と運の割合は、努力よりも格段に大きいからである。
人間社会のあらゆる種類の不平等は、この他人を概観して評価するときの基準が間違っていることに原因しているのである。従って、この基準を理解しない限りは、どんな不平等も無くなることはなく、理解を欠いた方法の全ては、小手先だけの対症療法にしかならないのである。
そして、人間の価値は、成果・結果ではなく努力にあるということ。このことは、以下で述べていく多くの項目において、その論を理解していく上での中心的原理となる。

・人間精神の進むべき道

人間は運命に順って生きて行かなければ、自ら自分の人生を苦しいものとしてしまうであろう。しかし、人間というものは運命に逆らって生きていこうとして、自らの人生を苦しいものとしているのが常である。
運命に逆らって生きるとはどういうことか。欲するものは人によって様々だが、例えば成功や理想の異性を勝ち取りたい等々の欲するものと、自分の現在の現実との乖離を認めることが出来ずに、精神が苦しい状態のことである。現実が運命であるのに、欲するものにばかり目が行き、現実という運命に逆らっているのである。
人間というものは、運命に逆らって生きていくことを経験しなければ、運命に順って生きていくことの大切さを真の意味で理解することは出来ないのかも知れない。それどころか、欲するものを得るために、自分自身が納得できる努力をした後でない限り、運命に逆らうことから逃れられないのかも知れない。これらの真偽は分からないが、それが真実ならば、欲するものを得るために努力することは、すごく重要なことになる。
しかし、どこかのタイミングで運命に逆らって生きていくこと、つまり欲するものと現実の乖離の大きさを認め、欲するものを勝ち取ることの不可能性を認めなければ、運命に順って流れに身を任せて自然に生きるという人間にとって最も大切なことから遠ざかり、人生を不幸なものにするであろう。まさに、上善水の如しである。
人に親切にしたいと思う気持ちは、人間精神にとって極めて重要なものだと思われる。しかし、人に親切にしたいと思っても、運命に逆らって生きていたのでは、それも叶わないだろう。なぜなら、人に親切にしたいと思っても、自分自身が運命に逆らって生きていることによって、心が陰鬱で暗い状態ならば、その気持ちは伝わらないし、それどころか悪く受け取られることもある。結局のところ、明るく朗らかな状態でいることが、あらゆる人への最高の親切になるのではないであろうか。運命に逆らって生きて精神が苦しんでいるのに、どうして明るく朗らかな状態になれるだろうか。
そして、運命に逆らって生きてきたのを、運命に順って生きていくことへ転換するのにも、人間の価値は成果ではなく努力にあるという認識は非常に重要となるであろう。満足のいく成果を出すよりも、満足のいく努力をすることの方がはるかに簡単だからである。つまり、運命に逆らって生きる理由が、成果よりも努力である方が、断然に早く無くなるのである。

人間が人間らしく生きるために必要なものは、基本的には次の3つだけであろう。

1,健康

2,生きるために必要な最低限の金

3,自分がやりたいこと、やるべきことの探求と挑戦。

1と2は自分の意志ではどうしようもない側面がある。特に1の健康はそうである。従ってそれらが満たされていない者は、より多くの努力が要求される可能性がある。そして、その可能性が現実となった場合には、理不尽であるように思われるが、なぜそのような理不尽が存在するのかはこの世の人間には分からない。ただ、そのような者の人生は、普通の者の人生よりも価値が高かったのではないかと推測できることくらいである。
3が人生における全ての人間の目標であり、言い換えるとそれは大よそ努力とも言え、1と2はそれを達成する為の道具と言えるでしょう。
このことからは、次のことが導き出されます。自分がやりたいこと、やるべきことの探求と挑戦をすることによって、人生を悔いなく生きることができる。またその上で、運命に順って生きることによって、言い換えると流れに身を任せて自然に生きることによって、自分にも周囲にもほがらかさを与えるという人間に与えられたもう一つの命題をクリアすることと、人生そのものの辛さを大きく軽減できるということです。
これを実践することによって人間の心は大きく救われるでしょう。しかし、これだけでは救われない問題があります。それは、死への恐怖、痛みや苦しみへの恐怖、死後の裁きへの恐怖です。
これらの恐怖から解放されるためには、それらの恐怖の実際の有無や程度を知り、更にそれらが実際には恐れるほどのものではなかったと判明する必要があるでしょう。しかし、人間はそれらを想像することは出来ても、それらを知る術はない。
ゆえに、結局のところ、宗教をどれだけ信じているか・臨死体験や輪廻転生などの報告をどれだけ信じているか・瞑想や催眠などを通じて臨死体験に近いような心の変性状態を体験したならば、それをどれだけ信じれるか等々に委ねられているのでしょう。
また、科学で説明がつかないことは全く信じない唯物論者で、死んだら無となるだけと割り切ろうとしている人であったとしても、痛みや苦しみへの恐怖や、死んで無となることへの恐怖や虚しさは消えないであろう。
それ以前に恐らく、全ての人間は結局のところ、何だかんだ言ったところで、ある程度はあの世の存在を信じているのである。なぜなら、本当に信じていないのなら、とことんずる賢く功利的な生き方をするはずだが、誰もそのようにはしないからである。
本当に完全な唯物論者であの世を信じないならば、人を愛することはあっても、それは自分が愛してもらうためとなるであろう。そして、自分が愛してもらう必要がない人や、自分が必要としない人に対しては、つまり赤の他人に対しては、全くの不誠実になるはずだが、そのような人間などは、存在しないのではないであろうか。赤の他人であっても、苦しんでいるのを見たら、助けてあげたいと誰でも思うはずだ。
本当に完全な唯物論者であの世を信じていないのだが、もしかしたら死後の世界があるかもしれないから、念のために死後の裁きを受けないために、全くの不誠実にならないようにしているのでは、と考える人がいるかも知れません。しかし、念のための行動を取るということそのものが、1割を超えて恐らく3~4割くらいであの世を信じていることにならないだろうか。1割以下しかあの世を信じていないのならば、念のための行動など取らないであろう。つまり、本当に完全な唯物論者であの世を信じていないと豪語する者であっても、自分自身で意識できていないだけで、深層心理下では3~4割くらいであの世を信じているのではないであろうか。
一方で、死後の世界を信じている人の中には、あの世があることを8割以上の確信で信じている人が多くいるし、場合によっては10割の確信で信じている人もいるように思われる。このことは、あの世が存在しないと考える人の確信に比べて、あの世が存在すると考える人の確信はかなり高いということではないであろうか。

・所得の分配

大多数の人は、現在(2021年)の所得格差は不公平と思っているでしょう。
それでは、大多数の人が不公平と感じているのに、なぜ所得格差は縮まるどころか開いていってしまっているのであろうか。
それは、不公平とは感じていても、所得の高い人はそれに応じた富を創出している一方で、所得の低い人はそれに応じた富しか創出していないからである。つまり、成果に応じて分配するという競争原理を維持することが、所得格差よりも大切と捉えている、または捉えざるを得ないと考えているからである。
このことは、成果に応じて分配するという原理が、正義であるという考え方が間違いであるということが証明されなければ、所得格差はなくならないことを意味している。
そして、今までのところ、それが間違いであるという証明はされてなく、それは正しいということになっている。
しかし、本当にそうであろうか。と言うのは、成果に重大な影響を及ぼすものに才能というものがあるが、それは本人の意志によって獲得できるであろうか。
それは生まれたときに既に備わっていたものであり、決して本人の意志や努力によって獲得したものではない。それは天によって与えられたものである。
つまり、成果というものは、天によって与えられた才能や運に基づくものと、本人の努力(志というようなもの等も含む)に基づくものによって構成されるのである。
このことからは、人々への成果に基づく報酬というものは、成果のうち努力に起因するものに関してだけが支払われなければならないということが導き出される。天に起因するものは、天に報酬として支払うことは不可能なので、その分は社会全体に支払われるべきだからである。なぜなら、各個人よりも社会全体の方が、より天に近い存在だからである。
まず、このことの理解が社会全体で共有されなければ、絶対に所得格差はなくならないであろう。このことが理解出来て始めて次のステップへと向かうことが出来るのである。
次のステップとは何か。努力に応じて分配することが正しいと分かっても、各人の努力量を客観的に評価することが不可能だということである。
確かに各人の努力量を客観的に評価することは不可能である。しかし、同時に次のことも理解しなければならないであろう。それは、一般的な人の努力量に対して、格段に多くの努力が出来る人は、この世には存在しないということである。
一般的なサラリーマンを例にとって考えてみよう。週5日間を1日8時間以上で働かなければならないのが普通であろう。しかも、この競争が激しい社会においては、密度もかなり濃いはずだ。それの3倍働くことなど誰も出来ないであろう。
そうなのです。一般的な人の努力量に対して3倍以上努力することなど、絶対に誰にも出来ないのである。このことからは、社会全体の平均収入に対して3倍以上の報酬を得ることが破廉恥であることが導き出されるのである。
このことを社会全体が共有したならば、自動的に平均収入に対して3倍以上の報酬は無くなっていくであろう。例えば、平均収入に対して3倍以上の報酬を禁止する法律を作るとか、3倍を超えた分は税金として徴収するとか等である。もちろん、どういう方法でアプローチするにせよ、様々な不測の事態が出てきて、その都度に対策や調整は必要であろう。しかし、それは大きな問題にはならないであろう。
大切なことは、成果を構成する3つの要素である才能・努力・運のうち、本人の意志によって変えることが出来るのは努力だけであり、才能と運は天から与えられたものでしかないということである。そうであるからには、努力に応じて報酬の分配がされるべきということである。

・本当の悪とは何か

真の悪い行いとは何か。相手が困るということが分かっているのに、その困る行為をするということである。つまり、悪い行為であることを理解していながら、その悪い行為をするということである。
反対に言うと、悪い行為であることを理解していなかったのであれば、その行為が客観的にどれだけ悪い行いであったとしても、それは真の悪ではないということになる。
なぜなら、悪い行為だと理解できていなければ、その人間は、その悪い行為を回避することが出来ず、回避できるかどうかは、本人の意志を超越したところにあるからである。
猫が捕まえた獲物を残虐にもてあそんで殺したあげく食べたとしても、その猫の残虐行為を誰も悪だとは見なさない。それはその猫が悪意を持っていたとは誰も思わないからである。
そしてこの理屈は、当然人間にも当てはまるはずだ。なぜなら、生まれつき頭の悪い人間や、物わかりの悪い人間や、極悪非道で冷酷な性分の人間や、劣悪な環境で育った人間等は、普通の人間に比べて正しい善悪概念を持たなくなってしまい、自己中心的な振る舞いで他人を傷つけてもそれを悪と考えない人間になってしまう可能性が大きく高まるが、それは先の猫と同じで本人の意志では変えようがないからである。
人間が残虐になるか否かは、強い人間は何をしても良いと考えるか否かの問題である。そして、それは環境によって決まる。戦時中に軍隊の全員が非道な行為をしたアッシリア。彼らは征服した人々を殺し、女性を犯した。また、わざと苦しませて殺し、それを見て笑っていた。彼ら全員の心が腐っていたと考えるのは難しい。恐らくそういったことを行なっても良いという考えが、彼らの中に満たされていたのであろう。そして、そのような環境の中で生きれば、ほとんど全ての人間が残虐な思考に染まってしまうのは必然であり、それを個人の力で超えるのは基本的には不可能なのであろう。
以上のことからは、人間が人間を罰することは誤りであるということが導き出される。悪を行なった人間が、それが悪であったと認識していたかどうか、更には認識の深さはどの程度だったのかは、誰にも分からないからである。また、もし仮に悪であるという認識がなかったとしても、それは本人の今までの人生における努力不足によるものなのか、本人の意志で変えることの出来ないものによるものなのかは、誰にも分からないからである。つまり、現代文明社会が法の名の下に行っている裁判は、全て本質的には誤りということになるのである。
とは言え、もし仮に人間が人間を罰する裁判というものが無ければ、自分勝手な行動をする人間が大量に出現し、社会が成り立たなくなることは明らかである。そして、その負の大きさは、人間が人間を罰することが本質的に誤りであるという負の大きさを、大きく上回るのが明らかであろう。
ゆえに、現代文明社会において行われている裁判というものは、必要なものである。しかし、ここまでに示してきた論理を考えれば、その目的は社会を混乱させないためであり、決して人を裁くためであってはならないということは銘記しておかなくてはならないはずだ。
犯罪を犯した者は、法で定められた罰を受けなければならないが、それはその人間を裁くためではなく、社会秩序を守るためであるはずだ。従って被害者感情などというものは考慮すべきではないはずである。なぜなら、被害者感情は、加害者が許せないので厳刑を求める感情、つまりその加害者を罰して裁くという感情だからである。
ここまで、真の悪徳行為というのは、悪いことであることが分かっているのに、その悪いことをすることだと述べてきた。ただ、人間にとってどうしても分からないことは、悪い行為だと分かっていながら、その悪い行為をするということなど、本当にあり得るのかということである。そんなことはあり得ない可能性は十分にある。
しかし、もしそれがあり得るとしたならば、ただ何気なく行った悪よりも、欲にかられて行った悪の方が、より悪い可能性が高くなるであろう。
何気なく行う悪というものは、自然に人間の本性的に行われるからには、悪い行為だという認識が少ない状態で悪を行なった可能性が高いと思われるからである。一方で、欲にかられて行う悪というものは、自分の利益が大きく関与するので、悪い行為という認識を十分に持っているのに、自分の利益のために道徳心に背いて行った可能性が高くなるからである。
私は、悪を行なった人間に対して、その悪を行なったことによって他人がいかに大きな痛みを受けたかを理解して反省して欲しいとは望むが、その悪を行なった人間に罰を受けて欲しいとは望まない。
改心するために必要なことは、心の持ち方を自発的に改善することでしかないと思うからである。
悪を2度と行わないようになるために必要なことは、法や人の眼をすり抜けて悪をすることは幾らでも可能だが、それはしてはいけないという道徳観を持つことであって、その悪によって巻き起こされる他人の身体的・精神的苦痛に相当するような罰を実体験することにあるのではない。
もしも、実体験が必要だと言うのならば、伝染病のワクチンを打つように、あらかじめ人間はあらゆる苦痛を自ら受けておくべきということになるが、そんなことをしたら全ての人間の人生は地獄になってしまうであろう。必要なのは実体験ではなく、想像を深め広めることであり、それは自発的にしか生まれてこないものなのである。
ここまでに述べてきたような論理は頭の中で考えると、とてつもなく難しいことである。しかし、人間は感性というものを持っていて、この悪の概念に限らず様々な難しい論理の正しい結論を、瞬時に理解することが出来るのである。しかし、余りにも多くの人間が、自分の感性というものに信頼を持とうとせず、論理に偏重してしまうために、この素晴らしい能力を捨ててしまっているのである。
この感性による瞬時の理解は、人間の創造性の源であり、あらゆる論理や勉学よりも遥かに大切なものであるのに、科学が進歩した現代社会においては、論理や勉学ばかりが強調され、忘却の彼方へと追いやられてしまっているのである。
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