日本経済の凋落と東京一極集中による多様性の欠如

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東京一極集中の意味することは、日本全国に東京のやり方や考え方を浸透させることである。それは自由の風潮の強い地域から、自由を奪うことにもなる。

なぜなら東京の方法は、基本的にはルールを重んじる中央集権的体制だからである。だから、東京的考え方とある意味で反対の特性を持つ、自由の風潮の強い関西経済の低迷と東京一極集中が同時進行してきたのも納得できる。

この東京のルール下の統制を重んじるやり方は、効率性や正確性やマニュアルやコンプライアンスといった点においては強みを発揮し、職場での職務遂行能力は上がるであろうが、一方で職場の雰囲気から自由を奪うことによって、人々の創造性を低減させると共に、職場で仕事をすることを加速度的に辛いものとするであろう。

この為に、職場における各個人単位の仕事量は減っているのに、なぜかストレスは減るどころか増えるといった現象が生じてしまったのである。仕事がシステマティックになり過ぎたために、窮屈感がストレスを加速度的に増やしてしまったのである。

そして、その職場の雰囲気から自由が失われたことが、職場の下部も含めた全体からの大胆な発想や提言が生まれ育まれていくことを阻害し、企業の挑戦する意欲を失わせ、それが日本経済の衰退の最大かつ唯一の原因となってしまったのである。

東京のやり方が日本で通じても、日本が東京一辺倒のやり方をしている限りは世界では通用しないのである。

生物界において種を存続させるためには多様性が極めて重要であるのと同様、経済は生き物であると例えられることを鑑みると、経済に関しても多様性は極めて重要なのである。そしてその経済における多様性は、長い目で見たならば効率よりも重要なのである。

そうであるにも関わらず、日本の東京一極集中的考えは、近視眼的に効率だけを考え東京近辺に物質を集中させ、より重要な多様性を阻害してしまっているのである。

東京の特性であり長所でもあるルールを重んじるやり方は、東京の周辺だけで行われている限りは、それは多様性の中のひとつであり問題はないのだが、それを結果としてではあるとしても全国津々浦々にまで半強制的に広めてしまったことは、日本経済の成長力を大きく減衰させたのである。

この東京一極集中による多様性の欠如は、世界的に見て女性の社会進出が遅れていることによって引き起こされる多様性の欠如と並んで、いま日本が多様性をつくりだすために最も改善しなければならないことではないでしょうか。

現在の東京的なやり方を基本とした日本の組織の体質は、形式上だけは全ての人が物を言える状態になっているが、実際にはほとんどの人が言えない状態になっている。形式上は全ての人が同等の発言権を有しているが、実際には下から上に物を申すことはご法度状態となってしまっているのである。

また、対等な立場同士であっても、言いやすい人間に対しては物を申すことが出来ても、言いにくい人間に対しては物を申すことが出来なくなってしまっているのである。言いにくい人間というものは、仕返しをしてきたり根に持ったりするのではと感じさせられるので、恐れてしまうのである。

このようなことは、日本に真の意味での自由がないから起こり易くなるのである。

欧米のように自由を重視する国々においては、何であれ言うことに関して罪悪感が少ないため、悪いことは悪いとはっきり言うことが出来る風潮が社会に充満しているが、それがない日本では悪い者に対して悪いということさえも、相手を非難するのは悪いことではないかと自省してしまったり、逆恨みされるのを恐れて言えなくなってしまったりして、悪どい者をのさばらせてしまうのである。

そして白を黒と言ったり、黒を白と言ったりしてしまうことが頻繁に起こり、職場の雰囲気を悪くしてしまうのである。この職場の雰囲気こそが、日本経済が低迷することになった唯一無二で最大の原因なのである。

アインシュタインの言葉に「この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ。」という言葉があるが、この職場での見て見ぬふりによる影響は、職場で悪いことをする人による影響よりも、極めて悪影響が高いということを自覚し、自分は直接的には何も悪いことをしていないからと言って安心するのではなく、見て見ぬふりをしている自分を恥ずかしく思わなければならないのではないであろうか。

これらの真の自由の意味を分かっていないことによって、形式上だけは者を申す権利を有してはいるが、実際には有していなかったり、その権利を行使する勇気を持てないでいたりすることによって、職場の雰囲気を悪くしたり窮屈感を生み出したりしており、それと同時に大胆な発想を生まれさせにくくしているのである。

このような真の自由の意味を、欧米人は感覚的にではあるが意識することが出来ているが、日本人は感覚的にでさえも意識することが出来ないでいるのである。

その差が、見かけのシステム上はスムーズに組織が動き生産性が高まるようになっているのに、実際には窮屈感からくる精神的圧迫が溌溂とした動きを阻害し、結果として生産性を低くしてしまっているのである。

真の自由があれば、物を申す自由も奪われないのである。真の自由があれば、見て見ぬふりをする必要もないのである。真の自由があれば、悪いことは悪いと言える自由も確保されるのである。

しかし、日本には真の自由はないのである。日本が真の自由を持つためには、日本人が真の自由とは何かについて、もう一度じっくりと考え直す必要があるのではないであろうか。

真の自由に必要なことは、個人の自由を主張することではなく、他人が自由を侵害(いじめ、パワーハラスメント等)されるのを見たときや、自分の所属する組織に個人の自由を侵害する慣習があるのを知ったときに、それに声を上げることだ。

しかし、残念なことに現在の日本の庶民は、声を上げようとする強さを持たない。自由というものが、個人の問題と強く結びつけられ、公共の自由を守ることに関心を持つことが出来ていないのである。

この東京一極集中による多様性の欠如が、江戸時代と似ているような気がするのは私だけでしょうか。

参勤交代などで人を江戸に集め中央集権を強めることによって、日本全土を上手く統治することには成功したが、そのことによって多様性を失ったのではないでしょうか。

鎖国をすることによって、その期間ずっと世界からの物質や情報が制限され、そのことによって多様性が育まれなかったのではないでしょうか。

これらの江戸幕府の政策は、日本全土を長い期間に渡り安定的に統治することには成功したが、多様性の創生を拒むことになったのではないでしょうか。

江戸幕府の政策も、現在の東京一極集中も、多様性の欠如を招く結果となり、それによって世界に通用しなくなったという点では同じなのではないでしょうか。

国を統治することは大切だが、統治するだけで終わってしまうと、大きな進展性は望めなくなるでしょう。重要なことは、自由な風潮と、それによって形成される多様性が、出来る限り最大限になるように努めながら統治するということではないでしょうか。

そのことを本当に理解していたならば、国に関係する機関や施設を、ここまで東京近辺に集中させるということはしなかったでしょう。

全く理解に欠けていたから、効率という観点からしか見てこなかったから、それらの機関や施設を極端に東京とその近辺に集中させてきたのではないでしょうか。

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