アラスカに住むトリンギットの老漁師ヴィクター・ヴィンセントが姪のコーリス・チョトキン・シニア夫人に向って、自分が死んだらおまえの息子として生まれ変わるつもりだ、と語ったことが本例の発端になっている。
ヴィクター・ヴィンセントは姪に小さな手術痕をふたつ見せた。ひとつは鼻柱の近くにあり、もうひとつは背中にあった。その痕を見せながら姪に、このふたつの痕跡と同じ場所にあざがあるから(来世では)すぐ見分けがつくはずだ、と語ったのである。
ヴィクター・ヴィンセントは、1946年春に死亡した。その一年半ほど後(1947年12月15日に)、チョトキン夫人は男児を出産した。
その子は、父親の名前を襲名し、コーリス・チョトキン・ジュニアと名付けられた。コーリス・チョトキン・ジュニアの体には母斑がふたつあった。
母親のチョトキン夫人によれば、その母斑は、以前伯父のヴィクター・ヴィンセントが見せてくれた手術痕と全く同じ部位にあったという。
私がこの母斑を初めて見たのは1962年であったが、チョトキン夫人の話では、生まれた時にあった位置からはふたつとも既に離れてしまっているとのことであった。とはいえ、ふたつともまだかなり明瞭であり、特に背中の母斑は印象的であった。
長さ三センチ、幅五ミリほどの大きさで、周囲の皮膚に比べて黒ずんでおり、わずかに盛り上がっていた。
手術痕が癒えた時の状況とよく似ており、大きな母斑の両側の、手術で切開した皮膚を縫合する糸があるはずの位置に、小さな丸いあざが確かにいくつか付いていたため、手術の痕に似ているという印象をますます深めたのである。
コーリスが一歳一ヵ月になったばかりの頃、母親が名前を復唱させようとしたところ、コーリスは腹立たしげに、「ぼくが誰か知ってるよね。カーコディだよ」と言った。これは、ヴィクター・ヴィンセントの部族名であった。
コーリスが自分のことをカーコディだと言った話をチョトキン夫人がある伯母にしたところ、その伯母は、コーリスが生まれる直前、ヴィクター・ヴィンセントがチョトキン一家と暮らすようになる夢を見た話をしてくれた。
チョトキン夫人によれば、ヴィクター・ヴィンセントが自分の息子に生まれ変わると予言していた話をそれまでその伯母に一度もしたことがなかったのは確かだという。
コーリスは二、三歳の時に、ヴィクター・ヴィンセントの未亡人を筆頭として、ヴィクターが生前知っていた人物数名を独力で見分けている。
母親の話では、コーリスは、通常の手段で知ったとは考えにくい、ヴィクター・ヴィンセントの存命中に起こったふたつの出来事についても言い当てているという。
また、コーリスは、ヴィクター・ヴィンセントとよく似た行動特徴もいくつか示している。たとえばコーリスは、髪の梳かし方がヴィクター・ヴィンセントと瓜ふたつであったし、ふたりとも吃音があり、船や海の上にいることを非常に好み、きわめて宗教心が強く、しかも左利きだったのである。
コーリスはまた、小さい頃から発動機に関心を示し、発動機を操作、修理する技術も持っていた。母親の話では、コーリスは船の発動機の操縦法を独学で習得したという。
コーリスが父親からこの技術を受け継いだり学んだりした可能性はない。父親には発動機に対する関心も発動機を操作する技術もほとんどなかったからである。
9歳になった頃コーリスは、それまで記憶していたと思われる前世についてあまり話さなくなり、私(イアン・スティーヴンソン博士)が初めて対面した1962年には、もう何も覚えていないと語っている。
私は、1960年代初頭に3回と、1972年に1回の計4回コーリスと面接している。コーリスには吃音があったわけであるが、最後に面接した時にはその吃音は完全に消失していた。しかし、興奮すると吃る傾向は残していた。
宗教に対する関心は既に失われていたが、発動機に対する関心はまだ見られた。ベトナム戦争の時コーリスは、砲兵として前線に出たが、近くで砲弾が炸裂したため、聴覚に障害を受けた。
1972年に私が最後に対面した時には、聴覚障害を除いては健康で、シトカの自宅近くのパルプ工場の仕事に意欲的に従事していた。
引用 前世を記憶する子どもたち イアン・スティーヴンソン著 日本教文社
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