私(イアン・スティーヴンソン博士)が本例を初めて知ったのは、1968年のことであり、シャーロット・イーストランド夫人から手紙を受け取ったのがそのきっかけであった。
夫人は、ある雑誌で私の研究を紹介する記事を読み、娘のスーザンの発言や行動に関する情報を自発的に提供してくれたのである。それによると、スーザンは、ウィニーという夭逝した姉の生涯を、断片的にではあるが記憶しているようであった。
私は、1968年から69年初頭にかけて、イーストランド夫人と何回か文通した後、1969年夏に、アイダホ州の夫人宅を訪ねた。
そのおり、前世を記憶しているというスーザンと、姉のシャロンのふたりにも対面しているが、シャロンとスーザンの義父に当たるロバート・イーストランド氏には会わなかった。夫人によると、イーストランド氏も、スーザンが前世の話をしている場面を何度か目撃しているという。
ウィニーは、6歳になった1961年に、車にはねられて死亡している。ウイニーの突然の死は、一家に大きな衝撃を与えた。母親であるイーストランド夫人は悲しみに打ちひしがれ、どのような形であってもよいからウィニーがもう一度自分たちのもとへ戻ってくることを強く希った。
この頃のイーストランド夫人は、生まれ変わりという考え方については漠然としか知らなかった。夫人が後で話してくれたところでは、インドでは人間が動物に生まれ変わることもあると(自分には考えられないが)信じられているという話を耳にしたことはあったが、人間として生まれ変わって来るという話は一度も聞いたことはなかった、という。
にもかかわらず一家は、ウィニーが何らかの形で自分たちのもとへ帰って来るのではないかと考えていた。
ウィニーの死後半年ほど経った時、姉のシャロンは、ウィニーが家族のもとへ帰って来ようとしている夢を見た。また、その2ヵ月後イーストランド夫人は、自分の妊娠を知った時、ウィニーがまた家族と一緒にいる夢を見た。
1964年、夫人が出産のため分娩室に入っている時、最初の夫(子ども全員の父親)は、「パパ、今うちに帰るからね」というウィニーの声をはっきり聞いたような気がしたという。
このようにして、3年前に娘を失い、同じ子どもが自分たちのもとへ帰って来てほしいと希っている家族のもとに、スーザンが生まれたのである。ウィニーの生涯にまつわるスーザンの発言を検討するに際しては、以上の事実を念頭に置かなければならない。
2歳になった頃、スーザンは、ウィニーの生涯に関係するらしい発言をいくつか行なった。
誰かに年齢を聞かれるとスーザンは、いつも6歳と答えた。(6歳というのは、ウィニーが死亡した年齢である。)実際の年齢よりも年長だと思い込んでいる状態は、少なくとも5歳になるまで続いた。
5歳の時にスーザンは、当時7歳だった兄のリチャードよりも年上だと言い張っているからである。ウィニーは、リチャードよりも3歳ほど年長だったので、ウィニーからすればスーザンの発言は正しいが、スーザン自身から見れば明らかにまちがっていた。
スーザンは、ウィニーが写っている2枚の写真に異常な興味を示し、「これはあたしだったの」と言った。
イーストランド夫人は、これはウィニーの写真だと、スーザンにもしかすると話したことがあったかもしれないというが、おまえ(スーザン)はウィニーの生まれ変わりのような気がする、とスーザンに言ったことはないという。
スーザンはその写真を自分だと認めただけではなかった。その写真は自分が持っているとも言い張ったのである。スーザンは、1枚をベッドのそばの壁に貼り、もう1枚は何週間か持ち歩いた。そして時々、これは自分の写真だ、と主張していたという。
スーザンは、ウィニーと呼んでほしいとは言わなかったが、殴り書きが少しできるようになった頃、台所のドアにクレヨンで“WINNI”という文字を書いた。最後にあるべきEを落とし、Iも、縦に書かずに横に寝かせて書いたのであった。
同じ頃スーザンは、「私が学校に行った時」という言葉を頻繁に用いたうえ、学校のブランコで遊んだことを話した。
ところがスーザンはまだ学校には行っていなかったし、自宅の裏庭にあるブランコには乗って遊んだものの、学校のブランコでは遊んだことはなかった。それに対してウィニーは、死亡する前に入学しており、学校のブランコでもよく遊んでいたのである。
ウィニーの生前、イーストランド夫人は、蓋にネコのおもちゃの付いた、クッキーの容器を持っていた。子どもがその中に入ったクッキーをほしがった時には、クッキーをいくつあげたらよいかそのネコに聞く、という遊びを夫人は子どもたちといつもしていた。
それからネコを真似た声で、「ニャーン、ひとつ食べてよろしい」と答えるのである。(子どもの要求や空腹度を夫人が判断して、与えるクッキーの数を加減していたわけである。)ウィニーの死後、夫人は、その容器をどこかに片付けたまま忘れてしまっていた。
そのため、その容器は、数年間しまい込まれたままになっていた。スーザンが4歳になった頃、イーストランド夫人は、その容器を取りだし、クッキーを詰めた。
スーザンがクッキーをひとつほしいと言ったので、容器の蓋に付いているネコを使った遊びについてスーザンが知らないはずだということは特に意識せず、何気なく夫人は、「さあ、ネコちゃんが何と言うかなぁ」とスーザンに聞いた。
するとスーザンは、「ニャーン、ひとつ食べてよろしい」と言って母親を仰天させた。イーストランド夫人は、その話を私にしている時に、スーザンのように頭のよい子なら、もしかするとそう推理して答えたのかもしれない、と語った。
私としては、母親からのテレパシーを通じてそれを知ったという可能性もここに指摘しておきたい。とはいえ、スーザンが自分の意志で答えたという事実は、本人がウィニーの記憶を何らかの方法で身に付けたとする解釈と軌を一にするのである。
その後スーザンは、他にも、ウィニーが見聞きした出来事をいくつか口にしている。家族と連れ立って海辺に行き、そこでカニを捕まえた時のことを話したうえ、同行した家族の名前を挙げた。
イーストランド夫人は、ウィニーが死亡する前年、ワシントン州の海岸へ一家で旅行したことを想い出した。浜辺で遊び、貝殻を拾ったり潮干狩りをしたことはあるが、カニを捕まえた記憶は夫人にはなかった。
スーザンは、一緒に旅行に出かけた4人のうち3人の名前を言い当てたが、実際には行かなかった継父をその中に含めていた。しかし、その後に自分からその誤りを訂正し、ウィニーの(同時にスーザン自身の)父親が一緒だったと言った。
スーザンはまた、姉のシャロンと牧場で遊んだ話もした。馬を怖がらなかったことや、馬のお腹の下を潜ったことについても話した。いずれもウィニーのこととすれば当たっていた。ウィニーは、シャロンと一緒に牧場で遊んだし、馬を怖がらず、馬の下を一度通ったことがあったのである。
ある時、イーストランド夫人はスーザンに、向かいに住んでいたグレゴリーという男の子を覚えているかどうか尋ねた。
それに対してスーザンは、「うん、グレッギーのこと覚えてるよ。あの子とはよく遊んだもん」と答えたという。「グレッギー」というのはグレゴリーの愛称であったが、夫人は、スーザンがそう言うまでその愛称を口にしていなかったのである。
母親は、ジョージ伯父さんを覚えているかどうかについても聞いてみた。その伯父は、自宅前の通りを少し行ったところに住んでいた。
スーザンは、伯父の家がどんな形をしていたかは想い出さなかったが、伯父さんのことなら覚えていると言い、「あたしたち、登校する途中でいつも伯父さんのうちに寄って、ちょっと遊んだの」とも話したという。確かにウィニーは、いつもそうしていた。ウィニーは、交通事故で死亡した当日にも、その伯父宅に寄って遊んでいたのであった。
ここで付け加えておかなければならないが、グレゴリーもジョージも、一家がウィニーの生前に暮らしていた町の住人だったのである。スーザンは、アイダホ州にあるもっと小さな町に転居後生まれ、そこで育てられている。
読者の方々は、スーザンの母親が時おり、ウィニーの生前に起こった出来事を質問して本人の記憶を刺激しようとしているのに気づかれることであろう。このような会話をすると、子どもに何らかの情報を不用意に与えてしまうおそれがあるし、故人との同一視を促す一因にもなるかもしれない。
とはいえ、イーストランド夫人のようにさまざまな点に注意が行き届く思慮深い人物によるものであれば、この種の質問によって、通常の伝達が行われる可能性を回避しつつ新たな記憶を引き出すことができるかもしれないのである。
実例をもう一例挙げよう。ある時イーストランド夫人はスーザンに、あの子(ウィニー)は野原で新しい靴をなくしたことがあると言った。それに対してスーザンは、笑いながら、あんな靴なくなったっていいもん、と答えた。
また続けて、「それでママは、町に行ってまた新しいのを買って来なきゃいけなかったよね」と言ったのである。このような出来事がウィニーには確かにあった。一足しかない靴を野原でなくしてしまったことがあるのである。
私は、1969年末までの時点で、本例については調査し尽くしたと考えた。
しかしながら、いくつかの点を再確認し、スーザンのその後の発達について問い合わせるため、1977年、イーストランド夫人と手紙のやりとりをした際、スーザンが、ウィニーの生涯に起こった別の出来事を想い出したことを知った。
イーストランド夫人充ての私の手紙を読んで聞かせたことが明らかにきっかけとなって、前世についてまた新しいことを想い出したのであった。
その時スーザンは、母親に連れられて(ウィニーが)ボーリング場に行った時のことを母親に話した。母親がボーリングをしている間ウィニーは、その場を離れ、売店に行ったり母親のところに走って戻ったりしていた。
たまたまそこに来ていた男の子も、ウィニーと一緒に走り回っていて、その男の子がウィニーにキスしたという。イーストランド夫人はこの出来事をよく覚えていた。特に、その男の子がウィニーにキスしたことで、それを聞いた夫がひどく怒ったからである。
スーザンは、「私はウィニーだった」とか「私はウィニーだ」といった直接的な表現は一度もしなかった。ウィニーの写真を見て自分の写真だと言った時が、表現としてはそれに一番近かった。
スーザンは、母親の言葉を借りると、“昔”の記憶のようなものを持っていた。ウィニーならしているが、本人(スーザン)はした経験がないことの記憶を持っていたからである。
しかしながら、ウィニーの生涯に関するスーザンの記憶は、この種のほとんどの事例とは異なり、あまり筋の通ったものにはなっていなかった。
換言すれば、スーザンは前世の記憶を持ってはいたが、以前にもこの世に生を受けていたことがあるとははっきり思っていなかったらしい、ということである。
スーザンは、イーストランド夫人が私宛ての手紙の中で、「娘が何かを新しく学ぶ時、そんなことは前からわかっていて、ただ想い出せばいいだけだったような感じが時々いたします」と書いているように、急速に知識を増したのである。
イーストランド夫人は、スーザンとウィニーには、似ていると思う性格特徴がふたつあることに気づいていた。夫人によれば、ふたりは、かなり積極的であると同時に、人格が円満でもあるという。
こうした特徴は、姉のシャロンには見られなかった。夫人の話ではシャロンは、どちらかと言えば臆病で、人格もあまり円満とは言えなかったという。
しかしスーザンは、身体的にはウィニーとあまり似ていなかった。ウィニーは、髪の毛が赤く、目は非常に黒っぽかったが、スーザンはブロンドで、目は青かったのである。スーザンもウィニーも、背中がかなり毛深かった。ふたりの父親もそうであったが、他の子どもたちは違っていた。
またスーザンには、左臀部に小さな母斑があったが、それは、車にはねられた時に致命傷となった外傷と同じ部位にあった。(私は、その事故の後ウィニーが運び込まれた病院から、ウィニーの医学的記録を取り寄せている。ウィニーはその病院で死亡したのであった。)家族の中には、同じような母斑を持つ者はいなかった。
本例は、どの点から見ても生まれ変わり信仰に好意的ではない宗教的背景の中で発生した、かなりの数にのぼるアメリカの事例のひとつである。イーストランド夫人は、生まれ変わりが起こる可能性を強く否定するあるキリスト教会に所属していた。
私が訪れた時夫人は、もし自分が生まれ変わりという考え方に関心を抱いたと見なされれば、協会から放逐されるのではないかと思う、と話してくれた。夫人は生まれ変わりという考え方に事実引かれたが、一方、それ以外の教義についてはどうにか教会に従い続けた。
1969年初夏に私が訪問する時点まで、スーザンがウィニーの生まれ変わりだと思っていることを子どもたちに話していないのはまちがいない、とイーストランド夫人は私に証言してくれた。
しかし夫人は、その年の夏、私が訪問した理由に対して子どもたちが当然のことながら興味を示したので、たぶんその機会に子どもたちにそのことを話しているという。
引用 前世を記憶する子どもたち イアン・スティーヴンソン著 日本教文社
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