生まれ変わり事例(ゴーパール・グプタの場合)

その他

ゴーパール・グプタは、1956年8月26日にインドのデリーで生まれた。両親は、ほとんど教育のない中流の下の階層に属している。ふたりとも、乳児期のゴーパールの発育に変わった点があったことには気づかなかった。

ゴーパールが(2歳から2歳半の間に)言葉を話すようになってまもなく、グプタ家に来客があった。

父親がゴーパールに、客が使ったコップを片付けるよう命ずると、ゴーパールは、「そんなものは持たない。ぼくはシャルマだ」と答え、周囲を仰天させた。(シャルマとは、インドで最高のカーストであるバラモン階級に属する人々のことである。)それから癇癪を起こし、コップをいくつか割った。

父親はゴーパールに、乱暴なふるまいをした理由と、仰天すべき発言を行なった理由とを尋ねたところ、ゴーパールは、マトゥラーという町で暮らしていた前世時代の記憶をつぶさに語った。マトゥラーとは、デリーの南方160キロほどのところにある町である。

ゴーパールの話によると、当時本人は薬品関係の会社を経営しており、その社名は、スク・シャンチャラクであったという。また、大邸宅に住み、召使いを大勢使っていたこと、妻とふたりの弟がいたこと、弟のひとりと口論し、その弟に撃たれたことなどについても語った。

前世でバラモンだったというゴーパールの主張からすると、そのコップに触れるのを拒否した理由は説明できた。バラモンであれば、自分より下の階層に属する者が触った食器類には手を触れないのがふつうだからである。ゴーパール自身の家族は、バニャンという商人のカーストに属していた。

ゴーパールの両親はマトゥラーとは全く無関係であったし、ゴーパールから、その町で暮らしていたという話を聞いても、何も想い出すことはなかった。

母親は、本人が覚えているという前世についてあえてゴーパールから聞き出そうとはしなかったし、当初父親もこの問題には無関心であった。

しかし父親は、ゴーパールが語った内容を時おり友人に話して聞かせていた。話を聞いた友人の中に、ゴーパールの話と符合する、マトゥラーで起こった殺人事件をおぼろげながら覚えている者がひとりいたが、父親は、本人が語った事柄が事実かどうか確かめるためマトゥラーまで出かける気にはならなかった。

結局父親は、宗教的な祭典を見物する目的で(1964年に)マトゥラーまで行ったが、そのおり、スク・シャンチャラク商会を見つけ、ゴーパールが語った内容が本当かどうか販売の責任者に尋ねている。

父親からその話を聞かされた責任者はそれに思い当たるところがあった。経営者のひとりが、何年か前、兄を射殺していたからである。撃たれた兄のシャクティパル・シャルマは、その2,3日後の1948年5月27日に死亡している。

販売責任者は、ゴーパールの父親が訪ねて来た時のことをシャルマ一家に話した。その後、何人かの家族がデリーにゴーパールを訪ね、言葉を交わし、マトゥラーに住む自分たち家族のもとへ遊びに来るよう誘った。その招待に応じ、ゴーパールはマトゥラーに一家を訪ねた。

両者がデリーとマトゥラーで対面した際、ゴーパールは、シャクティパル・シャルマが妻に借金を申し入れた事実をゴーパールが語ったことに特に強い印象を受けた。シャルマは妻から借りた金をその弟に与えたかったのである。

この弟は、共同経営者であったが、けんか好きで金遣いが荒かった。シャクティパル・シャルマは、もっと金を渡し、要求の多い弟を宥めたかったのだが、妻はこうした宥和策に賛成せず、夫の申し入れを拒んだ。

そのため弟はますます怒り狂い、あげくはシャクティパルを撃ったのであった。こうした内輪のいざこざは詳しくは公表されなかったので、家族内の関係者以外には、詳しい経過を知っている者はおそらくいなかったであろう。(殺人事件そのものは広く知られていた。)

ゴーパールがこうした事柄を承知しており、それ以外にもいくつかの発言を行なったうえ、シャクティパルが知っていた人物を見分けたことからシャルマ一家は、ゴーパールがシャクティパル・シャルマの生まれ変わりだと確信するに至った。

前世について語ったことに加え、ゴーパールは、裕福なバラモンならともかく、ゴーパール自身の家族にはふさわしくない行動を演じている。

ゴーパールは、家族の者に、自分はおまえたちよりも高いカーストに属しているという発言を平気で行っている。いかなる家事もしたがらず、自分にはそのための召使いが何人もいると主張し、他の者が使ったコップではミルクを飲もうともしなかった。

インドの事例について長年私(イアン・スティーヴンソン博士)と共同で研究を続けているジャムナ・プラサード博士は、本例の調査を1965年に開始した。

私は、1969年に本例の調査に着手し、デリーおよびマトゥラーに住む双方の家族を対象に面接調査を行った。私は、1974年までこの事例の追跡調査を続けている。

ゴーパールは、マトゥラーへ行きたいという願望を強く表明したことは一度もなかったし、1965年にマトゥラーを訪れた後、もう一度行かせてほしいと懇願することもなかった。

1965年以降の数年間、ゴーパールは、デリーに住む、シャクティパル・シャルマのふたりの姉妹を時おり訪ねているものの、それ以降、両家の接触は完全に絶たれている。

成長するに従ってゴーパールは、バラモン教の紳士気取りを徐々にやめ、自らの家族が置かれている質素な環境に次第に適応するようになった。

シャクティパル・シャルマの生涯について話すことも少なくなって行ったが、1974年の段階でも父親は、依然としてゴーパールにはかなりの記憶が残されていると考えていた。

ゴーパールの事例は、シャクティパル・シャルマの生涯および死亡時の模様を通常の方法で知った可能性が低いという点で、証拠性が高いもののように私(イアン・スティーヴンソン博士)には思われる。

シャクティパル・シャルマがマトゥラーの有力者一家の一員であったのは事実であるし、シャクティパルが殺害された事件が当時大きく報道されたのも事実である。しかし、シャルマ家とグプタ家は相当離れた地域で生活していたし、カーストや経済的な階層も全く異なっているのである。

双方の家族の生活圏がこのように全く違っているので、私(イアン・スティーヴンソン博士)としては、本例が表面化するまで相手の存在は互いに知らなかったとする双方の家族の言い分を、ためらわず受け入れたいと思う。

引用 前世を記憶する子どもたち イアン・スティーヴンソン著 日本教文社

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