このことに関しては賛否両論あり、どちらが正しいかという客観的な判断は少なくとも現時点では不可能であり、それをどう考えるかは個々人の問題になると思います。
そのような中ではありますが、あえてそれが存在するということを強く主張する第一級の有力な証拠を、臨死体験や輪廻転生などあらゆる事象を対象として集めてみました。
また、死後の世界がどのようなものであるかについて、あえて想像してみましたので、興味のある方はこちらも参照してください。死後の世界について大胆に想像してみた
1臨死体験
1.1知っている訳がない肉親の死を、臨死体験を通して知っていた。
2臨死共有体験
3輪廻転生(生まれ変わり)
4その他
1臨死体験
1.1知っている訳がない肉親の死を、臨死体験を通して知っていた。
次の文章は、臨死体験研究について、レイモンド・ムーディ博士と並んで世界をリードしてきたエリザベス・キューブラー・ロス博士による、過去の事例の紹介と、それらについての見解です。
世界各地で何千人もの人間が、死の前に同じ「幻覚」、すなわち、先立った親類や友だちの存在に気づくということは、精神科医として大変興味深いものがあります。これには、なんらかの解釈ができるはずです。そこで、私たちは再びこのことを研究する方法を見つけて、それが正しいことか、もしかしたら願望の投影に過ぎないのかを確かめることにしました。
おそらく、一番よい研究の方法は、家族の事故の後で死にかけている子供たちと一緒に過ごすことでしょう。私たちはたいてい、これを7月4日(独立記念日)や戦没将校記念日や労働祭などの休日の後におこなっています。
というのも、休日はたいてい家族そろって出かけますし、正面衝突などの事故が多発しやすく、家族の何人かが死んだり、重傷を負ったりして病院に運ばれてくることが多いからです。
私は、自分の本業として子供たちの付き添いをしてきました。子供たちはけがをしていて、生きるか死ぬかの瀬戸際にいます。彼らは家族の誰が亡くなったかは知らされていません。しかしいつも私は、彼らが自分より早く死んだ家族に気づくことに驚かされます。
私は側に座って静かに見守り、時には手を握ってあげます。彼らは落ち着かない様子でいるのですが、死の直前になると、急に穏やかになります。これが前兆なのです。
このとき私は、もしよかったらいま体験していることを話してくれませんか、と頼みます。すると、彼らはみな同じような言葉で、「ええ、今は何もかもだいじょうぶです。もうママもピーターもわたしのことを待ってくれてるの」と言うのです。
私は、母親の方は事故で即死したことを知っています。しかし、弟のピーターが亡くなったとは聞かされていません。少ししてから、子供病院からピーターが十分前に亡くなったという電話が入るのです。
このようなデータを集め始めてからの何年もの間に、たった一人の子供も、自分の死が差し迫っているときにまだ先立っていない家族の姿を見ている人はいません。
私もどう説明したらよいのか分かりませんが、子供たちは自分が移行する際、家族の誰が自分を待っていてくれるのかすでに分かっているという以外にありません。そして、多くの人になかなか理解してもらえないのですが、彼らは違ったいのちの形で再会するのです。
もう一つ、こうした子供たちの体験以上に私を感動させたものがあります。それは、あるアメリカインディアンのケースです。
これまでのところ、私たちはあまりデータを持っていません。というのも、アメリカインディアンはあまり死ぬ瞬間について話したがらないからです。
この若いアメリカインディアンの女性は、高速道路でひき逃げにあいました。見知らぬ人が、彼女を助けようと車を止めました。
すると、彼女は穏やかに言ったのです。「もう私はだめだから、何をやってくださっても無駄です。それより、いつかここから七百マイル(約千百キロ)離れたインディアン指定保留地の近くに行かれることがあったら、私の母に、私はだいじょうぶだからと伝えてください。それから、いまお父さんも一緒にいてくれるのでとても幸せだと伝えてください」そして彼女は、この見知らぬ人の腕のなかで息を引き取りました。
この善良な見知らぬ人は、ちょうどその時その場に居合わせることができたことに大いに感動し、遠回りであったにもかかわらず、七百マイルの道のりを車で母親のところへと向かいました。
インディアンの指定保留地に着くと、母親の夫、つまり犠牲者の父が、娘の事故の一時間前に心筋梗塞で死んだことを告げられたのでした。
このように、ある人が死にかけていて、家族の誰かが亡くなったことを告げられていないか、知らないにもかかわらず、その誰かに迎えられたというケースはたくさんあります。
引用 死後の真実 エリザベス・キューブラー・ロス著 日本教文社
臨死体験中に既に亡くなった人と会うことは多いが、まだ生きている人と会うことはないと、数多くの体験談を聞いてきたエリザベス・キューブラー・ロス博士は言う。
しかし、臨死体験懐疑派は、それは脳が自分の知識から作り出したストーリーだと言う。ところが、既に亡くなっているということを知らない人に会うという事例があり、この場合には、脳が自分の知識から作り出したストーリーだとは言えない。
それでも、あくまでも脳内現象にこだわるのならば、臨死体験中の生死を彷徨っている中で、テレパシーか何かで情報を得たと考えることになる。しかし、この説では、瀕死の状態の者がそのような情報をテレパシーか何かで得るという、何が何でも脳内現象で説明しようとする無理が強くうかがえる。
そのように考えるくらいなら、既に死んでいたとは知らない人に、死後の世界で会ったと考える方が、よっぽどシンプルで正当性があるのではないでしょうか。真実は、複雑に考えるのではなく、シンプルに考えた先にあるのが、一般的なのではないでしょうか。
次の文章も、エリザベス・キューブラー・ロス博士による過去の事例の紹介と、それらについての見解です。
私(エリザベス・キューブラー・ロス博士)にとって、最も深い感銘を与えてくれるのは、たぶん死にゆく子供たちの側に一緒にいる最近の仕事によるものでしょう。
私の患者さんのほとんどは子供たちです。私は彼らを家に帰して死なせてあげます。そして「うちの子」が家で死ぬことができるように、家族や兄弟たちに心の準備をさせます。
死にゆく子供たちの一番の不安は、寂しく独りぼっちになって、誰もそばにいてくれないことなのです。でも、この移行の瞬間には、誰も絶対に独りぼっちではありません。
みなさんはたった今でも独りぼっちではないのです。ただそれを知らないだけです。みなさんの移行の瞬間にはガイドや、守護天使や、みなさんが最も愛した故人が手助けをしてくれるでしょう。
科学者として言いますが、このことは疑いの「う」の字もなく、実証されています。この移行のときは、必ず誰かしら助けに来てくれるのです。
たいていの場合、母親か父親、または祖父母、もしくはわが子をすでに亡くしている場合は子供のこともあります。すでに「あの世」へ逝っていたことなど知らなかった人たちが出てくることも、しばしばあります。
ある12歳の子供の場合ですが、彼女は自分が臨死体験で経験したすばらしい体験を母親に話したがりませんでした。
どんな母親も、自分の家よりすてきなところだったという話など聞きたいとは思わないでしょう。その気持ちはよく分かります。
しかしこの子はこれほどの珍しい体験を、どうしても誰かに話したくてたまらなかったのです。とうとう、ある日父親に打ち明けました。
死ぬのはとても美しい体験なので、もう戻ってはきたくなくなるのよ、と。何がそんなに特別な体験だったのかというと、その雰囲気はもちろんのこと、すてきな愛や光、そして何よりも彼女のお兄さんがそこにはいて、大きな優しさや、愛、共感で彼女を包み込んでくれたことだった。
話し終えた後、彼女は父親に聞きました。「でも、1つ問題があるわ。私、お兄ちゃんなんていないのに」
すると、父親は泣きだして、実はお兄さんがいたのだと告白しました。彼女が生まれる三カ月前にあの世へと逝ってしまったお兄さんがいたのですが、そのことを彼女には伝えていなかったのです。
どうしてこのような例をあげるのかお分かりでしょうか。多くの人が、彼らは死にかかっているとはいってもまだ死んではいないのだから、愛する人たちのことを思い出して、その人の姿を思い描くのはごく自然なことだと言います。しかし、自分の知らない、会ったこともないお兄ちゃんのことを思い描くことなんてできますか?
私は、末期の病をわずらっている子供たち全員に必ず、今ここで誰に一番会いたいか、誰にずっと一緒にいてほしいか聞きます。(ついでに言っておきますが、大人の患者さんはたいていが信じないので、死後のいのちについては話すことができずにいます。私は決して、患者さんたちに押しつけません)。
私はいつも子供たちに、もし一人だけ選ぶことができれば誰を選ぶのか聞いてみます。
黒人の子供たちをのぞいて、99パーセントの子供たちが、パパとママを選びます。(黒人の子供の場合、おばさんやおばあちゃんが一番自分のことをかわいがってくれ、一番長く一緒にいてくれるから、と彼女たちを選ぶことが多いのです。でもこれは、単なる文化的な違いに過ぎません)。
ほとんどの子供がパパとママと言うのですが、実際に生死をさまよった子供のうち、親がすでに先立っている者以外は、親を見ることはないのです。
これは単なる願望の投影ですよ、とたいていの人は言います。死にゆく人は、絶望し、孤独でおびえているために、自分の愛する人を想像するのだと言います。
もしこれが本当ならば、五歳、六歳、七歳といった死にゆく子供たちの99パーセントは、パパとママを見るはずです。
しかし、何年も研究してきましたが、誰一人としてパパとママを見た子はいないのです。なぜなら、パパとママはまだこの世に存在するからです。
誰に会えるかを決める要因は、たとえ一分でも先に亡くなっている人で、そして死にゆく人が心から愛していた相手であることです。
このことからも、たくさんの子供たちがイエス様にお会いしているわけが分かります。また、ユダヤ人の男の子はイエス様に会うことはないでしょう。というのも、ユダヤ人はたいていイエス様をしたってはいないからです。しかし、これは単に宗教的な違いに過ぎません。
引用 死後の真実 エリザベス・キューブラー・ロス著 日本教文社
次の事例は、立花隆氏の本の中の対談で、エリザベス・キューブラー・ロス博士が語ったスイスの臨死体験者の話です。
この人は、アルプスをイタリアに抜けるゴタール峠で、車が次々に何台も衝突する多重衝突事故にまきこまれて、重傷を負いました。三人の医師が彼を診て、この男は死んだといい、毛布をかけて立ち去りました。しかし彼は死んだのではなく臨死体験をしていました。
体外離脱して事故現場の周辺を見ると、事故のため上下線ともストップして大渋滞が起きており、何千台という車がつながっていました。彼にはその車に乗っている人たち一人一人の考えていることがわかりました。ほとんど全部の人が、渋滞にいらだち、怒り、腹を立てていました。
しかし、そのうち一人だけ、事故で怪我した人のために一生懸命お祈りをしている女の人がいました。どうか一人でも多くの人が助かりますようにと一心不乱に祈っていました。彼はそれに感激して、その女の人が乗っている車のナンバーを覚えました。
結局、彼は死んでいないことがわかり、病院にかつぎこまれて助かるのですが、九ヶ月後に病院を退院してからその女の人を車のナンバーを頼りに探し当て、会いにいくのです。
そして、あのときあなたはこう祈っていたというと、その通りだったのです。これはスイスではとても有名な話で、本にもなっています。こういう例は、どうしたって、幻覚説では説明できないのです。
引用 臨死体験 立花隆著 文藝春秋
生まれつき目が見えない人でも、臨死体験をしたときには見えていたという事例があるが、これは死後の世界があるということの有力な証拠となるでしょう。
現世においては一度も見たことがないし、今後も見えないということがほぼ確定しているからには、それが見えるということは現世とは異なる世界であることを意味するからです。
また、生まれてから一度も見たことがないからには、嘘をついて見るということを説明することも不可能なはずです。
以下に、ジェフリー・ロング博士と作家であり映画監督でもあるポール・ペリー氏の共著から、事例を含めた見解を記します。また、その後に、先述のエリザベス・キューブラー・ロス博士の見解も記したいと思います。
1998年、ケネス・リングとシャロン・クーパーは、鮮明な視覚を伴う臨死体験をしたり、臨死体験とは関係なく体外離脱を体験したりした盲人についての画期的な論文を、『臨死研究ジャーナル』に発表した。
この中に、興味深い事例集がある。典型的な特徴を備えた臨死体験をした先天的全盲者の証言を集めたもので、その報告には詳細な視覚描写が含まれている。
先天的な盲人、あるいは生後まもなく視力を失った人間が秩序立った視覚体験を伴う臨死体験をするなど、医学的には説明不能である。
ヴィッキの例を挙げよう。臨死体験時に生まれて初めてものを見た彼女の事例は、リングとクーパーの共著『Mindsight(マインドサイト)』に記載されている。
彼女は保育器内で過剰な酸素にさらされ視神経がダメージを受けたため、生後すぐに視力を失った。ヴィッキには二度の臨死体験がある。
最初は盲腸の合併症で死にかけた12歳のとき、二度目は深刻な自動車事故に遭った22歳のときだ。最初の臨死体験で体外離脱した彼女は、人生で初めて「見ることができた」という。
ふたつの臨死体験の内容はほとんど同じだが、後者のほうがより鮮明で詳細だったそうで、ここでは後者の体験の詳細を記す。
頭部のけがを含め事故による外傷のダメージは深刻で、一年後も彼女はまだ完全に回復していなかった。救急救命室で意識が体を抜け出たのが臨死体験の始まりで、彼女は医療スタッフが自分を救おうとするのを「驚きに麻痺したようになって」見下ろしていた。
心が静まるにつれ、彼女の体験は詳細かつ視覚的に展開し、美しくこの世ならぬ場所への訪問や、すでに死んでいる友人たちとの再会、人生の回顧を経験した。自分の体を見下ろしたときの気持ちを、ヴィッキは次のように記述している。
「あれが私なのだとわかった・・・・・。当時は相当細かった。かなり背が高くてやせていた。最初は誰かの体があると思っただけで、自分だとは思いもよらなかったけれど、天井に浮かんでいるのに気がついて『なんか変な感じ。ここで何をしてるんだろう』と考えたあとひらめいた。『あの体はきっと自分だ。死んだのかもしれない』・・・・・ちらりと見ただけだったけれど・・・・・意識が抜け出しているのだから、あれが残してきた体なのだとわかった」
ヴィッキは既婚者で指輪をはめているが、もちろん実際に目にしたことはなかった。彼女は指輪を次のように描写している。
「右手の薬指にはシンプルな金の指輪、その隣に父の結婚指輪をしていたと思う。でも目が行ったのは自分の結婚指輪だった・・・・・。デザインが変わっていたから目を引かれた。端のほうにオレンジの花がついていた」
ヴィッキの回想についてもっとも驚くべき点は、彼女がそれまで視覚という概念をまったく理解していなかったということだ。「これは私が見るという行為や光というものにかかわった、唯一の機会だった。私は確かに経験したのだ」と述べている。
私は直接ヴィッキに会って、その驚嘆すべき話を聴いた。生まれつきの盲人にとって、視覚とは、抽象的な概念にすぎない。彼らの世界は聴覚、触覚、味覚、嗅覚の四感で構成されている。
盲人の中には治癒が可能で、外科的処置によって視力を回復する者もいる。すると視覚的情報にうまく対処できない期間がしばらく続く場合が多い。
ところがこれとは対照的に、ヴィッキは視覚的な情報処理に即座に適応している。この事実は、体験時の彼女の視覚が物理的器官に由来しないことを示唆している。
過去の研究で、先天的な盲人の夢には視覚がかかわるものは含まれないと判明している。・・・
引用 臨死体験9つの証拠 ジェフリー・ロング ポール・ペリー著 ブックマン社
臨死体験が、願望の投影でないことを証明する方法があります。それは、光の知覚力さえも失った完全な盲目の人を研究することです。
彼らに臨死体験中に体外離脱をしたときのことを聞いてみました。もしこれが単に願望を満たすだけのものだとしたら、目の見えない彼らが、まわりの人たちの着ていたセーターの色や、ネクタイの柄、また洋服の形や色、柄まで話してくれるはずがありません。
何人かの完全な盲目の人たちに尋ねてみましたが、誰が最初に入ってきたか、誰が蘇生を試みてくれたかということだけでなく、その場に居合わせた人たち全員の装い、洋服を詳しく話すことができました。本来なら、そのようなことは完全に目の見えない人たちができるはずがありません。
引用 死後の真実 エリザベス・キューブラー・ロス著 日本教文社
この事例は、病院で瀕死の状態のときに臨死体験をし、そのときに体外離脱をして、通常では知り得ないような事実を知ったケースで、対外離脱を通して知ったと考える以外には説明が難しいということで有名な事例です。
少し話が長くなるので、別画面で紹介したいと思います。
精神科医のリッチー博士は、臨死体験で体外離脱などを体験した。そのとき博士は空を飛びある街の白い食堂の前に降り立った。博士は死からの帰還の1年後、その白い食堂が実在するものなのかどうかを確認しようとして数人の友人を連れて周辺の町々をドライブしてまわり、それが実在するものであることを突きとめた。
この事例も、少し話が長くなるので、続きは別画面で紹介したいと思います。
これから紹介するのは、精神医学の巨人、C・G・ユングの臨死体験です。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。
「1944年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。
幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護師は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。
私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。
私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた」
このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読むと驚かされる。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。
これが現代の記述なら誰も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。
ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181~327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである。
「どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、ほぼ1500キロメートルの高さである。この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった。
しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。
視野のなかに、新しいなにかが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりもう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっていた」
~中略~
ユングが宇宙空間で出会った黒い大きな石塊は、その中がくり抜かれて、ヒンズー教の礼拝堂になっていた。その中にユングは入っていく。
「私が岩の入り口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落して行くのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。
この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。
それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事から成り立っていた。私は私自身の歴史の上になり立っているということを強く感じた。これこそが私なのだ。『私は存在したもの、成就したものの束である』」
このようにして、ユングは臨死体験を通じて、人間存在の本質を洞察するにいたるのである。
人は死ぬとき、この世に属する一切のものを捨てていく。それと同じことが、臨死体験でも起こる。捨てられて消えていくのは物質的存在だけではない。この世に属する思いの一切が捨てられ、欲望や我執の一切が、希望さえ含んで消えていく。
全てを捨てて捨てていったとき、最後の最後にギリギリ残るものは何なのか。これこそが私、といえるものは何なのか。それは私のまわりで起きたできごとの総体であり、私自身の歴史であり、私の成就したものの総体であるとユングはいう。
引用 臨死体験 立花隆著 ㈱文藝春秋
2臨死共有体験
臨死共有体験とは何か。初めて聞いた人もいるかと思うので簡単に説明しておきます。
通常の臨死体験は、本人のみが対外離脱や光の体験や神のような存在に会うことや人生回顧等々の経験をします。
それに対して臨死共有体験では、当の死にゆく人を看取っている家族などの周囲にいる人々が、当人が死んでいくときに同時にその体験を共有することです。具体的には、看取っている人も対外離脱をして、死んだ人が対外離脱をして光の中に吸い上げられていくのを見たり、死んだ人の人生回顧を一緒に見たりなどします。
それはジェイミーソン博士(女性)の母が心臓発作を起こしたときでした。突然の、予期しない出来事でした。
しかしそのとき、私(ジェイミーソン博士)はちょうど家にいたので、すぐさま人工呼吸を施しました。自分の母に口と口を合わせて人工呼吸するのが一体どんなものか、あなたは想像できますか?見知らぬ人にするのでさえ大変なのに、自分の母にするなんて、とても想像できないことでした。
長い時間にわたってそれをしました。たぶん30分くらい。もうこれ以上しても無駄で、母は死んでいるとわかるまで、必死に続けました。人口呼吸をやめたとき、ようやく一息つきました。しかし、いまや自分が孤児になったことさえ理解できないほど、私は疲れ果てていました。
そのときジェイミーソン博士が言うには、自分が突然、体外離脱したように感じたという。博士は自分の体を抜け出て、自分の体と母の体双方の上方におり、まるでバルコニーから下の景色をながめるかのように、下で行われているすべての光景をながめていた。
博士は続ける。「ああ、私は体外離脱している!」「いったいどうしたんだ。なんとか体に戻らなくちゃ」と、もがいているとき、突然気づいたのです。見ると、私と同じように母が、霊の形で上方を浮遊しているではありませんか。母は私のすぐとなりにいたのです。
そののちジェイミーソン博士は、静かに母に別れを告げた。下の遺体とは対照的に、母は幸福そうな微笑みを浮かべた。そのとき博士は、あるものを見て驚いたという。
部屋の隅のほうを見ると、なんと、あたかもパイプの裂け目から水が噴き出るように、宇宙に裂け目が生じ、そこからこちらの世界へ光が射し込んで来るではありませんか。その光の中から、私の親しかった亡き人々、母の親戚や友人たちが出てきたのです。私の知らない人々もいました。彼らもおそらく母の友達であろうと思いました。
ジェイミーソン博士の見守る中、母はその光の中に上げられていった。すべての友人や親戚の優しい付き添いを得て、向こう側へ去って行った。
「そののち宇宙の裂け目は、あたかもカメラのレンズの絞りのように小さく絞られていき、射し込む光も細くなり、ついに消えました」と博士は語った。
これらの出来事の間、一体どれくらいの時間が経過したのか、博士にはわからないという。しかしそれらが終わったとき、博士は自分の肉体に戻った。彼女は母の遺体のそばにたたずんでいた。
引用 臨死共有体験 レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
スーザン(女性)には、すでに成人した息子がいた。その息子はがんのために亡くなった。
息子が死んだとき、スーザンは息子と共に「雲の中で泣いていた」。雲の中に一種の映像となって映し出された息子の人生の様々な場面を、彼女は共に見て、回顧したという。
その人生回顧の幾つかの場面は、彼女の記憶にもあった。たとえば息子の幼少の頃や、10代のときのこと。しかし、彼女の記憶に全くないような場面も多々あった。「息子のプライベートな歳月」と呼べる期間のことなどである。
その期間のいろいろな場面を、彼女が勝手に想像で作り上げられるものでもないだろう。彼女は「それらを見て少なくとも当惑はしなかったわ」と言った。
この女性が、息子の人生の回顧を通して集めた情報は、きわめて具体的だった。というのは、体験後に彼女は、あの人生回顧で映し出された息子の友人を認識できたり、息子に関係のある場所を訪ねることさえできたからである。
私(著者であるムーディー博士)は、彼女がこのように息子と死の体験を共有したということに、非常な衝撃を受けた。しかも、彼女はそれ以前には知らなかった情報を、その体験を通して知った。その情報はのちにチェックされて、正しいことが証明されている。彼女が回顧の中で見た情報は、もともと彼女自身の記憶にはないものだった。
引用 臨死共有体験 レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
彼らは母親の臨終の床のまわりに集まっていた。以下は、一家の姉妹の一人が語ったものである。その叙述は、そこにいた他の者たちもみな、確かにその通りだと語っている。
母が亡くなった日、私と、二人の兄弟、妹、義理の姉は、みなその部屋にいました。母は数時間にわたり何も言わず、ただ不規則な呼吸を繰り返しているのみでした。周囲にいる私たちはみな、取り乱すことなく、落ち着いて母の最期のときを見守っていました。
突然、明るい光が部屋に現れたのです。私は一瞬、外を走る車のライトが窓越しに部屋の中を照らしたのかと思いました。しかし、その光はこの世のどんな光とも異なっていました。
私は、妹もその光を見たかどうか知りたくて、ひじで妹を軽くつつきました。そして妹を見ると、目がコーヒーカップの受け皿くらいに大きく見開いていたのです。兄弟たちも、驚きのあまりあえいでいる様子でした。私たちの誰もがその光を見、当初は恐怖を覚えました。
そのとき母が息絶えました。私たちはみな大きくため息をつきました。すると強烈な光が周囲を吸い込み、あたかも空間の形を変えていくような感じになって -何と表現していいか- 一種の入り口が形成されたのです。その光はいくぶん雲のような感じでもありました。でも、それはたとえにすぎません。
私たちは母が肉体から離れていく光景を目撃しました。母はその入り口のほうへ上げられていったのです。入り口の周辺には何というか、全き喜びの感情が伴いました。私の兄弟たちはそれを、歓喜のコーラスと呼びました。妹は美しい音楽を聞いたと言いましたが、他の者たちは聞きませんでした。
光の経験はあまりに強烈だったので、私たちはあとで、ホスピスの看護師にそれを話しました。看護師は話を聞いたのち、自分も同様の出来事を見聞きしたことがあると言いました。それは死にゆく人の周囲の人々にしばしば起こることなのだと、彼女は言いました。
引用 臨死共有体験 レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
母が息絶えたときと、事象が起こったときのタイミングがピッタリで、そのことが事象が真実であることの有力な証拠と言えるのではないでしょうか。
私(ダニエル)はホスピス・ワーカーとして働いていました。アルツハイマー病の老人サイクス氏が、私の最初の患者でした。彼は病気と高齢もあいまって急速に状態が悪化し、診断後1年ほどで臨終を迎えました。
私は付き添っていたので、彼のことも、彼の奥さんのこともよく知っています。
死の2か月ほど前、彼はほとんど植物状態になりました。それはアルツハイマー病の典型的な最終段階です。彼は自分がどこにいるかもわからず、自分の妻や子どももわかりませんでした。一貫した会話ができず、自分の状況について何もわかっていませんでした。
彼の死の1週間前に看護師と私は、激しくけいれんする彼の姿を見ました。ところが亡くなる日が来ると、彼はそれまでとは全く違った様子を見せました。彼はベッドの上に起き上がり、すわって、明晰な言葉で話しました。他の普通の人のようにです。
しかし、それは私たちに対して話したものではなかったのです。輝いた目を上に向けて、話している相手を『ヒュー』と呼んでいました。ヒュー氏と、大きな声、はっきりした言葉で会話していました。しばしば笑いながら。あたかも喫茶店で二人がすわって、おしゃべりを楽しんでいるかのような感じでした。
周囲で聞いていたホスピス・ワーカーたちは、ヒュー氏とはすでに亡くなった親戚だろうか、と思った。しかしサイクス氏の妻に聞いてみると、ヒュー氏は夫の兄弟だという。
そして今もマサチューセッツ州に住んでいると。しかも彼女によれば、前日もヒュー氏と話をして、夫がそろそろ危ない状態にあると彼に告げたという。ダニエルは続ける。
サイクス氏の奥さんは、ヒュー氏は今も生きていて健康だと言いました。ところがそののち私たちが知ったことは、ヒュー氏がすでに心臓発作で亡くなっていたことでした。サイクス氏が一時死にかけて奇跡的に蘇生したと大体同じ時刻に、ヒュー氏は急死していたのです。
サイクス氏の妻は、ヒュー氏がすでに急死していたことを知った。それを知ったとき、夫とヒュー氏の間の会話は、その病床に付き添うすべての者に新しい意味を与えたと、ダニエルは言う。
はじめ彼らは、サイクス氏は認知症のために混乱して言っているにすぎないと思いこんでいた。だが、今やサイクス氏の会話を、新たに亡くなった兄弟との会話としてみるようになったのである。
引用 臨死共有体験 レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
ムーディー博士は、これを臨死共有体験としているようだが、私は、これは臨死体験であるように思います。
死んでいくサイクス氏が、少し前に亡くなったヒュー氏と会話しているのを、超常現象下で見たのではなく、物理的現象下で見ていただけだからです。
臨死体験は通常、死にかけた者が蘇生して、その本人が体験談を語るのに対して、このケースの場合には、体験者本人はそのまま亡くなり、後に体験談を語っていなくて、その代わりに周囲の人がサイクス氏の死に瀕しているときの言動を目撃しているので、臨死共有体験にしているのだと思われます。
しかし、周囲の者は超常現象を体験しておらず、物理的現象としてのサイクス氏の言動を目撃しているに過ぎないと思います。
3輪廻転生(生まれ変わり)
前世をおぼえていると主張する人は大昔から数かぎりなくいるが、1935年にインドにあらわれた八歳の少女ほど説得力のあるケースはほかにないだろう。デリー生まれの少女シャンティ・デビは、前世の記憶が立証された例として世界じゅうを驚かせた。・・・・・
この事例も、少し話が長くなるので、続きは別画面で紹介したいと思います。
ジリアン・ポロックとジェニファー・ポロック(一卵性双生児)は、1958年10月4日、イングランド最北部のノーサンバーランド州ヘクサムに生まれた。
ふたりは、2歳から4歳までの間に、ジョアンナとジャクリーンというふたりの姉の生涯を記憶していると見られる発言をいくつか行った。
1957年5月5日、発狂した女性が歩道にわざと車を乗り入れ、そこで歩いていたジョアンナとジャクリーン姉妹を一瞬のうちに轢き殺した。そのときジョアンナは11歳、ジャクリーンは6歳であった。
この悲惨な事故のため、両親のジョン・ポロックとフローレンス・ポロックは、悲嘆のあまり呆然としてしまった。
しかしポロック氏は、(妻はそうではなかったが)生まれ変わりを強く信じていたことから、妻が1958年初頭に妊娠した時、死んだふたりの娘が双子として生まれてくるはずだ、と自信を持って断言した。
病院では否定されたにもかかわらず、妻は双子を生むはずだと言い続けた。そして実際に双生児が生まれたため、軽はずみとも思えたポロック氏の予言が、少なくとも双生児が生まれると言っていた点については正しかったことが立証された。
氏の確信は、まもなくさらに裏付けられた。ジャクリーンの体にあったふたつの傷跡と大きさも部位も一致する母斑が、妹のジェニファーの体にあることに夫妻が気づいたからである。
ジェニファーの眉間にある母斑は、ジャクリーンが昔倒れて付けた傷と一致していたし、ジェニファーの左腹部にある茶色の母斑は、ジャクリーンにあった同様の母斑と一致していたのである。
先述のように、2歳から4歳までの間に双生児の姉妹は、ふたりの死んだ姉の生涯についていくつかの事実を語っている。
そればかりではなく、死んだ姉たちが持っていた、あるいはそれでよく遊んでいたおもちゃのような物品もいくつか見分けている。その後両親は、こうした物品を通常の方法によってふたりが知ったはずはない、と主張している。
死んだふたりの姉のことを双生児と話し合ったことは一度もなかったし、双生児のふたりは、そうした物品を始めて見た時にわかったのであって、それまでそれを見ているはずがない、というのである。
双生児の姉妹がまだ1歳になる前に、一家はヘクサムから引っ越し、4歳頃両親に連れられて遊びに行くまで、ふたりは一度もヘクサムを訪れていない。ヘクサムに行ったときふたりは、まだ視界に入らないうちに、学校と、公園にあるブランコのことを自分たちの方から言い出した。
ふたりは、(生後9ヵ月でヘクサムから引っ越すまでの)乳児期に乳母車でその公園へ連れて行ってもらったことはあるが、それによってその学校や公園のブランコの存在を知った可能性はない、と両親は考えている。
ジリアンとジェニファーは、死んだ姉たちと一致する行動も示した。ジャクリーンは姉のジョアンナにかなり頼っていたが、それとちょうど同じように、ジェニファーも(双生児の)姉のジリアンをかなり頼りにしていたのである。
ふたりが字を習っている時、ジリアンは鉛筆を難なく持てたが、ジェニファーは手で握りしめてしまった。ジョアンナは、死亡するまでの数年間、鉛筆を正しく持って書くことができたが、(死亡した時点でわずか6歳だった)ジャクリーンは、筆記用具を握って持つ段階に留まっていたのである。
私は1964年に本例の調査を開始し、ポロック一家とは1985年まで接触を保っていた。
ポロック氏が生まれ変わりを心から信じているという事情があるため、双生児の娘の前ではポロック夫妻(や家族の者)は死んだふたりのことを口にしなかったと言っても信じられない者があるであろう。そういう者からすれば、本例には証拠としての価値はそれほどないかもしれない。
生まれ変わりの存在を確信しているおかげで本例の価値が低下するか、場合によっては無になってしまうのではないかという指摘に対してポロック氏は賢明にも、その反論には一理あると思うが、私が生まれ変わりという考え方を受け入れているからこそ、たいていの西洋の親なら無視したり笑いとばしたりするような、ふたりの娘の発言や行動に注目し、記憶しておくことができたのだ、と答えている。
1978年に私は、ジェニファーとジリアンをはじめポロック一家の血液型およびその亜型を調べることにより、ふたりが一卵性か二卵性かを明らかにしようと試みた。その結果、ふたりは一卵性双生児であることが判明した。つまり、遺伝形質は全く同一だということである。
ジェニファーの体に見られるような母斑は遺伝的なものの場合もあるので、それが遺伝的な原因で生じているとすれば、ジリアンにも同じ母斑ができると考えられよう。ところがジリアンには母斑が全く見られないので、妊娠中に起こった何らかの生物学的異常によりジェニファーの母斑が形成されたと思われるが、ジャクリーンの体にあった傷跡と部位も大きさもかなり一致する母斑がジェニファーにあることについては、この仮説では説明できないであろう。
ジリアンとジェニファーは、その後正常な女性として成長を遂げた。そのはるか以前にふたりは、前世に関する記憶を完全に喪失してしまっていた。
その後私はふたりと何度か会っているが、ふたりはかつて自分たちが持っていた記憶については少々懐疑的な態度を示している。つまり、その頃には既に、前世の記憶は残っていなかったので、自分たちが生まれ変わりの存在を裏付ける証拠になるとは言わなかったのである。とはいえ、幼少期に両親が自分たちを観察した結果得られた証拠については否定しなかった。
引用 前世を記憶する子どもたち イアン・スティーヴンソン著 日本教文社
前世で弟に撃たれて死んだことを覚えていた少年は、家族しか知らないはずの撃たれた詳しい理由も知っていた。この事件は当時広く報道されたが、家族内のいざこざを原因とする詳しい理由は身内の者しか知らないはずだった。
前世の鼻柱の近くと背中の手術痕が、現世においては全く同じ部位に母斑として現れていた。その母斑を持って現世に現われた少年は、前世の人物の知り合い数名を見分けている。また、通常の手段で知ったとは考えにくい、前世の人物の存命中に起こったふたつの出来事についても言い当てているという。
スーザンというアメリカの少女は、車にはねられて死亡した姉の記憶を持って生まれてきた。姉は6歳になった1961年に、車にはねられて死亡しているが、その後に生まれてきたスーザンは、姉の記憶と思われる発言を断片的にではあるが、数多く行ってきた。
2歳の子どもが「硫黄島の戦いで撃たれた」と語った
アメリカのABC放送の人気番組『プライムタイム』でも取り上げられ、全米で話題になり、その後、日本のテレビ番組を含め、世界中のメディアで取り上げられて有名になりました。
ヴァージニア大学医学部イアン・スティーヴンソン(生まれ変わり研究の第一人者)を中心に設立して、「前世の記憶」が実際の「客観的事実」と合致しているかどうかを実証的に研究している研究機関であるDOPSが調査する以前に、父親が綿密な記録を残していたため、詳細までわかる貴重な事例となっています。
事件は2000年、アメリカのルイジアナ州で起きました。両親はブルースとアンドレア、子どもの名はジェームズ・ライニンガーといいます。裕福なプロテスタントの家庭です。
ジェームズの特異な言動が始まったのは、2000年5月、ジェームズが2歳になったばかりの頃のことです。週に4~5回の頻度で、ジェームズは激しい夜泣きをするようになりました。
あまりにひどいので、アンドレアはかかりつけの小児科医に相談しましたが、よくあること、そのうちおさまるでしょう、と言われるだけでした。しかし、夜泣きはおさまるどころかしだいにエスカレートしていきます。
しばらくすると、今度は何度も同じ言葉を繰り返すようになりました。「飛行機が墜落! 炎上! 出られない!」
当時のジェームズは、ようやくいくつかの単語を並べて文章が作れるかどうかという時期だったので、両親は非常に驚いたそうです。
この後、ジェームズはつぎつぎと不思議な話をするようになります。「飛行機に乗っていたのは自分で、墜落したのは日本人に撃たれたからだ」と語ったり、「自分が乗っていた飛行機は『ナトマ』という船から飛び立った」、「硫黄島の戦いで撃たれた」、「近くに『ジャック・ラーセン』という仲間のパイロットがいる」といった具体的な固有名詞も語るようになりました。
母親にそのときの名前を聞かれると、ジェームズだよ、と言いました。いまと同じ名前だった、と息子は言いました。
この頃からアンドレアは、自分の息子の奇妙な言動は、「前世」に関係しているのではないか、と考えるようになります。一方、父のブルースは、そんな彼女の考えをバカバカしい、ありえない、と一蹴します。
ブルースはコロンビアの大学院で国際政治の修士号を取得したインテリで、石油会社で働くエリートビジネスマンであり、2週間に1回は聖書の研究会に参加する敬虔なクリスチャンでした。
すべて実際の出来事と合致
ジェームズはその後も不思議なことを次々と語りました。
彼はよく飛行機の絵を描いていたのですが、日本の飛行機にジークとかベティとか名前を付けるのです。不思議に思って、なぜそんな名前を付けるのか尋ねると、戦闘機には男の名前、爆撃機には女の名前を付けるんだよ、と3歳の息子は平然と答えました。
ブルースがすぐに調べると、確かに当時のアメリカ海軍の兵士たちがそのようにして日本の飛行機を区別していたことが判明しました。
また、ジェームズはよく「コルセア」という名前の飛行機の絵を描きました。そして「コルセアはいつもフラット・タイヤを履いていた」とか「離陸するときに左に傾く癖があった」などと話すのですが、これも後に事実であることがわかります。
ブルースは息子が話した「ナトマ」についても調べましたが、これも実在する小型の航空母艦で、太平洋戦争中に使われたものであることがわかりました。
興味深いのはこの後の両親のリアクションです。アンドレアはジェームズの話していることは前世の記憶に違いないと考えるようになりますが、それは彼女にとってもはや「確信」に近いものだったので、とりたててそれを「証明」しようとは考えませんでした。
一方、ブルースは、「前世」など絶対にあるわけがないという信念をもっているため、逆に、息子がなぜそのような不思議な話をするのか説明できずにいました。
最初のうちは息子がテレビや本などでそういったものを見たり聞いたりしたのだろうと考えましたが、その仮説で説明できるのはジェームズの言動のほんの一部であること、そしてそれがほとんどこじつけの説明であることは彼自身がいちばんよく理解していました。
息子に何かふつうではないことが起こっていると感じたブルースは、「前世」という仮説は否定しつつも、忙しい仕事の合間を縫って独自の調査に没頭するようになっていきます。
そして、インターネットで「ナトマ・ベイ戦友協会」なるものを見つけ、2002年9月にカリフォルニアのホテルで「ナトマ・ベイ戦友会」という集いが開かれることを知ります。
そこに行けば何か手がかりが得られるかもしれないと考えたブルースは、休暇をとってこの戦友会に参加することにします。
とはいえ、さすがに息子の話をするわけにもいかないので、「ナトマ・ベイについて本を書いているライター」という名目で連絡を取りつけ、参加の許可をもらうことに成功しました。
戦友会ではナトマ・ベイの元乗組員たちから直接話を聞くことができました。そこでも驚くべきことが起きます。
ブルースが乗組員名簿を見せてもらうと、そのなかに「ジャック・ラーセン」という名前があったのです。息子がナトマ・ベイで仲間だったと主張した「ジャック・ラーセン」という名のパイロットは本当に実在していたのです(ブルースはこの後、アーカンソー州に住む「ジャック・ラーセン」の自宅を直接訪れています)。
戦友会の後もブルースの調査は続き、新たに入手した生存者の証言や海軍の戦闘記録などから、息子の話していたことがすべて60年前に実際に起きた出来事と合致していることを確認しました。
そして、ナトマ・ベイの乗組員のうち、硫黄島の海戦で1名だけ戦没者がいたこともわかりました。
ブルースは政府発行の公式記録から、硫黄島海戦で戦死したのは「ジェームズ・ヒューストンJr.」という名のパイロットで、1945年3月3日に日本軍に撃墜され、炎上しながら海上に墜落したことを確認します。
当時の詳細な飛行記録も残っており、ジェームズが死亡した当日、そのすぐ隣を飛んでいたのがジャック・ラーセンの機体だったこともわかりました。
当初は頑として「前世」という説明を受け入れなかったブルースでしたが、数年に及ぶ自身の調査から、「前世の記憶」そして「生まれ変わり」という説明こそが、息子の異常な言動を説明するいちばん合理的な考えであるという結論に達しました。
その後、ジェームズは両親とともに、まだ存命していた前世時代の姉に会ったり、ナトマ・ベイ戦友会にも参加しました。戦友会のメンバーは、最初は戸惑った人もいたようですが、最後にはみな「かつての戦友」をあたたかく迎え入れてくれました。
引用 輪廻転生~(私)をつなぐ生まれ変わりの物語~ 竹倉史人著 講談社現代新書
4その他
レイモンドムーディ博士は、鏡をつかって既に亡くなった人と会う方法を考え出した。
これについても、少し話が長くなるので、続きは別画面で紹介したいと思います。
痛みや苦しみは、人間が優しさや同情心や親切を持つように神が授けた。
怒りは、人間に強さを与えた。
悲しみは、人間に優しさや強さ等々、多様な側面を与えた。
将来への不安や恐怖は、人間に正義心や道徳心を与えた。
そしてこれらは、物理的力によって支配されているこの世でしか体験できない。そのためにこの世はつくられたのではないでしょうか。つまり、あの世が本来の世界で、この世は訓練するための仮の場なのではないでしょうか。
参考文献一覧
死後の真実 エリザベス・キューブラー・ロス著 日本教文社
臨死体験 立花隆著 文藝春秋
臨死体験9つの証拠 ジェフリー・ロング ポール・ペリー著 ブックマン社
死後の生 ジェフリー・アイバーソン著 NHK出版
臨死共有体験 レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
前世を記憶する子どもたち イアン・スティーヴンソン著 日本教文社
生きる/死ぬその境界はなかった レイモンド・ムーディ ポール・ペリー著 ヒカルランド
輪廻転生~(私)をつなぐ生まれ変わりの物語~ 竹倉史人著 講談社現代新書
このページの先頭へ戻る。
1つ前のページへ戻る。
ホームへ行く。